****ドイツの芸術家、ヒト・シュタイエルHito Steyerlの個人展は色んな分野の問題を五つのセクションに分けてあった。彼女が監督した様々な映像作品とその展示する空間に意味を与えるインテリア・設置が周到に組まれていた。入口からレクチャービデオ―Mission Accomplited: BELANCIEGE(2019)―で観覧者を迎えたり、全ての映像展示物の前には必ず奇妙な座り場―ビーチチェア、塹壕、LEDなど―が置かれたことなどから、「わたしが見せ、あなたは見る」という構図をやけに思い知らされた感じであった。

無論、その構図は常に疑われる。例えばSocialSim(2020)は一見能動・平和的表象に用いられがちなダンス行為をデモの鎮圧側の方に転喩し、自動化されていくテクノロジーが作動しうるマカニズムを暴く。「450世代後、ソーシャル・シムズ(自己進化自動化芸術)はオーナーを売った」。このように物理空間とデータ空間の相互に作用するアルゴリズムにまつわる野生性は、Animal Spirits(2022)で止まらぬ欲望から生じる予測・理解不能な混沌に陥っていく様子で現れる。

その一方、複製され続けながら情報の海を延々と彷徨う、所謂「貧しいイメージ」、即ち「スクリーンの追放者たち」は社会の枠組みの外から影響を及ぼす。シュタイエルのドキュメンタリー作品は難民・移民者など、ドイツ社会の中心部からの「追放者」に焦点を合わせる。The Empty Centre(1998)によると、元々障壁のあった都市は移民者や貧民たちの集合地でもあった。そして障壁が崩れる途端に政府と企業はその土地を安価で買い占める。ジェントリフィケーションによって貧民は住処を失い、統一で盛り上がった民族主義は移民者を追い払う。私は今までベルリン障壁の崩壊事件について、統一の念願が生んだ平和の象徴的な出来事だと教わってきた。朝鮮半島両分という歴史的背景をシェアするところがあっての教育なのだが、そういった象徴性・共同性の狭間で起きる「本当」の出来事を私たちは知り得ない。―逆に、November(2004)ではクルード族難民を支持するデモ行列に参加しつつもその内部で行われた犯罪行為と作家自身が示す正義感の二重性を自ら暴いて、真実の概念の脆さを語る。

「これは本物じゃないと言うかもしれない。なら、何が本物か見せてくれ。」

音楽批評家のチョ・ジファンは「騒音は我らの日常的秩序がどのようにして統制に失敗させるのか理解させて(…)必然的に政治的な問題と関わる」と述べて、また「騒音は苦しい時にこそ急進的なはずだ。騒音を統制しようとする試みを妨げ、砕き、無力化させてこそ(…)」と記す。それが展示を巡る間に観覧者を苦しめてきた暗闇(何度も展示室の壁にぶつかった)とノイズ、グリッチなどに注意を向けるべきわけであると納得した。